アニバーサリーブレンド「おめでとう、ありがとう。」

 なんてことはない今日、いつもと変わらない朝。窓から差し込む光で目を覚ます。

 べつに何を期待しているわけでもないが、こころなし足早に階段を降りる。するとリビングから、男の人の声が漏れてくるのを耳が拾った。心と足がわずかに跳ね、勢いよくドアを開く。

 声の正体は、付けっ放しのテレビから流れるニュースキャスターのものだった。べつにがっかりすることもなく、なんとなく目線を落とすと、テーブルの上には一枚の紙が置かれている。

『おはよう、コトミ。冷蔵庫にケーキが入っています。手を洗ってから食べてね。』

 白紙の上に行儀良く並んだ簡潔な文字は、その書き主が今日もここへ帰ってくる予定がないことを示していた。

「……”おはよう”、ね」

 いつものことだ。べつに何も感じない。だって、この家にはサンタだって来やしなかったんだから。

 せめてもの反抗として、顔も洗わずに冷蔵庫を開ける。たくさんのイチゴが乗った真っ白なホールケーキは、冷気の城の中央で圧倒的な存在感を放ちながらも、どこか寂しそうな顔で居座っていた。

 このケーキは、わたしみたいだ。と思った。

 いつもと何ら変わらない朝、広すぎるこの家で一人17歳の誕生日を迎える、わたしみたいだと。

 イチゴをひとつ摘んで舌に載せてから、両手で抱えたホールケーキを見つめる。そもそもわたしは、甘い物がそこまで好きではない。嫌いではないが、量が食べられないのだ。

 あの人は、父は、わたしのことなんて何もわかっていない。いつも仕事仕事で家にいないから、話をする時間もない。

 お茶でも淹れようかと思ったところで、ふと、ある匂いが鼻腔をくすぐる。

 付けっ放しのテレビと置き手紙のほかに、彼がもうひとつ残していったもの。

 珈琲の残り香。

 わたしは、この匂いが苦手だ。

「……そういえば、こいつも誕生日だっけ」

 視界に入った自動式のコーヒーミルは、ちょうど一年前の今日、つまりわたしの16歳の誕生日に我が家にやってきた。父が連れてきたのだ。一人娘の面倒もろくに見れていないくせに、まったく見上げた甲斐性だ。

 プレゼントのつもりだろうか。どうせなら犬でも買ってきてくれれば良かったのに。それならわたしは、一人にならなくても済むのに。

「……まあ洋菓子には、お茶より合うのかな」

 コンセントを指して自動式珈琲ミルの電源が起動するのを待つ間に、幼い頃の記憶を、ちょっと引っ張ってみる。

 昔から珈琲が好きだった父は、たまの休みの日は手動の珈琲ミルで一日中豆を挽いていた。その横でわたしはいつも、聞いてもいないうんちくを聞かされたものだ。

 もう良い歳だから、手で挽くのには疲れたのだろうか。それでもわざわざ豆から挽くこだわりは捨てきれず、家には色んな国の珈琲豆が置かれている。

 どれにしようか迷うが──そこで、父から聞かされた話のひとつを思い出した。

“エチオピア産の豆はすっきりしてるから、朝一番に飲むといいよ。”

 珈琲については色々と詳しい父だったが、特に”珈琲を楽しく飲むシチュエーション”へのこだわりは一際強かった。味や価格ではなく、その時々の気分と状況で挽く豆を決めるというのが、あの人のオリジナルな珈琲の嗜み方なのだ。

 エチオピア産の豆を手に取ろうとして、止める。寝起きというにはもう十分すぎるくらい、わたしの目は冴えてしまっていたからだ。

 一旦冷蔵庫に戻しているホールケーキ、こいつを基点に考えてみる。

“スイーツのお供はこれ、ブラジルだな。コクと酸味のバランスが良いから、ティータイムにも持って来いだ。”

 しかしブラジル産の豆も、挽いてみようという気までは起こらない。珈琲として王道すぎるこの豆は、いまのわたしの気分的に重たすぎると思ったからだ。

 結局なにも決まらないまま、ホールケーキをテーブルへと運ぶ。指についた甘ったるいホイップと、机上に置かれた無機質な手紙の白が同じに見えてしまって、ついつい溜息を漏らす。

「はぁ……ん? なんか書いてある──?」

 息がかかり、ふわりと浮いた置き手紙には、その裏面にもなにかが書かれていることに気付いた。そこには表の機械的に整頓された文字よりも少し崩れた(それでも綺麗な方だが)、緊張感の滲む文章が長々と記されている。

『ケーキだけだと飽きるだろうから、珈琲も一緒に飲みなさい。』

 さっきは気付かなかったが、机の上には手紙の他に、使用前のカップと茶色の袋も置かれてあった。

 裏面のメッセージには、まだ続きがある。

『これが出来上がるまで、一年かかった。この日に間に合ってよかった。』

 茶色い袋の中は、すでに豆を挽いて拵えたドリップパックが入っていた。匂いを嗅いでみるが、家に置いてあるどこの国の豆とも違う。おそらく、父のオリジナルブレンドだろう。

 普段からシチュエーションにこだわる父は、特別な日にはいくつかの豆をブレンドして、オリジナルのパッケージブレンドを作っていた。

『オリジナルブレンドを試行錯誤するには、自動ミルの方が都合が良いことに気付いたんだ。覚えているかな? コトミは小さい頃、珈琲豆が削れる音を聞くのが好きだったよね。』

 父は昔から、休みの日には一日中珈琲豆を挽いていた。だから父と喋りたかったわたしは、ずっと彼の隣で、珈琲ミルが豆をコリコリと削る音を聞くしかなかった。

『昔から静かすぎるより、なにかが耳に入ってくる環境の方が好きだったろう。だから僕は知識を語ったし、珈琲ミルを動かす手を休ませなかった。』

 天気予報が終わったテレビからは、アナウンサーの笑い声がかすかに響いている。

 手紙を読みながら、ポットでお湯を沸かす。

『もうそろそろコトミも大人だし、これを機にまた、珈琲にも興味を持ってくれたら嬉しい。』

 ドリップパックをカップにセットして、数回に分けてお湯を注ぐ。立ち込める湯気と、珈琲の香り。

 わたしはこの匂いが苦手だ。

 朝起きるといつも、この匂いを残して、お父さんは出掛けてしまっているから。わたしはいつの間にか、珈琲の香りを嗅ぐことが、苦手になってしまっていた。

『また前みたいに、一緒にお父さんの淹れた珈琲を飲もう。』

 父は昔、休みのたびにわたしにも珈琲を淹れてくれていた。珈琲の味は苦味だけじゃないと言って。あの頃は全然飲めなかったけど、いまならまあ、少しはわかる。

『エチオピアとコロンビアを組み合わせたオリジナルブレンドだ。頭も冴えてバランス感覚も良いお前に、ぴったりのブレンドだろう。』

 父はわたしが小さい頃、休みのたびに珈琲を挽いていた。特別な日にはオリジナルブレンドを作っていた。楽しそうにうんちくを語り、美味しそうに珈琲を飲んでいた。

 そんなお父さんの横で珈琲の香りを嗅ぐことが、わたしは大好きだった。

『一年かけて贈るプレゼントだ。この言葉と供に、受け取って欲しい。』

 お父さんが今朝、わたしに置いていったもの。

 部屋を静かにしないテレビの音声。
 おはようから始まる置き手紙。
 わたしが苦手な、珈琲の残り香。

 一年前の誕生日に買ってきた珈琲ミル。

『コトミ、誕生日おめでとう。』

 そして、特別な日に作るオリジナルブレンド。

 珈琲の香りと舌に広がる苦味、奥からやってくる酸味とコクを、ちゃんと感じる。

「ありがとう、お父さん」

 ──スッキリと美味しい。そして、特別な味。

「……でもホールケーキはさすがに一人で食べきれないから、帰ってきたら手伝ってもらお」

 なんてことはない今日、いつもと変わらない朝。

 窓から入り込んだ昨日よりも少し涼しい風が、珈琲の湯気を踊らせる。

character:琴味(コトミ)

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