『ONとOFF』仕事の合間に“グアテマラ”

「ふー……」

 仕事において最も大切なのは、「余白」を持つことだ。

 給湯室の真っ白な壁に囲まれて、マグカップを片手に、ホッと一息つく。
吸うにも吐くにも億劫な、ただ息苦しいオフィスのなかで、ここは唯一心と頭を休ませられる、僕のオアシスだ。

 もう一度言おう。

「仕事には、余白を持って臨むべし」「あなたの仕事は余白どころか、全部白紙なんだけど」

 ……おかしいな。
 余白どころか、改行もなしに台詞が差し込まれた気がする。

「……幻聴、かな。やれやれ、ちょっと働きすぎたかも」「だからまだ、仕事がたくさん残ってるんだっての」

 幻聴じゃ、ない。
 ズズ、ズ。黒い液体を啜る音で搔き消そうとするも、続きの言葉はしつこく僕の両耳めがけて飛んでくる。

「なにやってるの、水城くん」

 振り返らなくてもわかる。視えない影の手で脳みそを鷲掴みにしてくるような声で僕の名字を呼んでくるのは、上司の草花先輩。

「どうですか、先輩も一杯」
「いらないし、お酒みたいな誘い方してこないで」

 マグカップを持っている手首を傾けて、気の利いた台詞を投げかけてみるも、全然連れない。

 言葉の字面からもわかるとおり、気の強い人。
 苦手だ。

 呑みに誘いたい相手には、なりえない。

「仕事に戻りなさい」
「だから、これも仕事なんですってば。草花さん」

 鬼の形相で僕の背中を睨んでくる上司に、落ち着いた調子で言葉を返す。なんで後ろに立っている人間の表情がわかるのかって?

 経験則というものを、侮っちゃいけない。

「これのどこが仕事よ」
「意識を切り替えるという仕事です」

 僕の視界では、黒い液体が揺れている。その揺れは香りの発散を促し、僕の鼻腔を通って快楽神経を刺激するとともに、部屋中に霧散する。草花先輩の鼻にも、この香り成分は届いていることだろう。

「ねえ、水城くん。もう一度だけ言わせてもらうけど」

 給湯室に珈琲の香りが充満する。

 草花さんの語気は、なお尖りを増す。

 香りも言葉も感情も、ただ撒き散らすだけでは非効率だということを、世の中のほとんどの人間は理解できていない。

「みんなが必死でパソコンと向かい合っているなか、優雅に珈琲を飲むのが、あなたの仕事なの?」

「ええ。みんなが液晶の数字と睨めっこしている間に、自分の感性と向き合う。それが僕の仕事です」
「ちっ」

 舌打ちが聞こえた。幻聴じゃない。
 苛立ちを源泉に発音されるその摩擦を背中で受けながらも、平常心で珈琲を啜る。

 ふー……………………。

 やっぱり、落ち着く。

「不公平だって、思わないの?」
「思いますよ」
「……え」

 業務もコミュニケーションも、基本的には即決即断、スピードが命の草花先輩に、若干の戸惑いがちらついた。僕の返答は、彼女からして意外なものだったろう。

「僕はね、『不公平』が嫌いなんですよ」

 付け入るスキは、ここだ。
 やっぱり、余白を持つことは大切だ。

「僕の仕事が白紙なのは、前の仕事をだれよりも早く効率的に終わらせたからでしょう。でも、そうしたら次の仕事も、だれよりも早く来てしまう。給料は変わらないのに」
「が、がんばっていれば、そのうち昇進も……」
「僕が大切にしたいのは、いつくるかもいわからない『そのうち』よりも、『いま』なんですよ」
「…………」

 沈黙と引き換えに、部屋を満たす珈琲の香り。
 最後の一口を啜って、カップを置く。

「なかでも僕がいちばん嫌いな不公平はね、『タバコ休憩』です。なんで喫煙者にだけ、過剰な余暇時間が与えられるんですか。ニコチンだけじゃない、カフェインにだって自分ではどうしようもない、依存作用があるんです」

 コーヒーミルのなかに、コーヒー豆を入れる。

「だったら、こうやって仕事の合間に珈琲を飲む時間があったっていいでしょう?」

 湯気の消えた静寂のなかに、豆を削る音が響く。

「……水城くんの言いたいことは、わかったわ。でもそれは、仕事をサボっていい理由にはならないと思うの」

 そこに、珈琲豆のように、削れて、丸くなった草花先輩の台詞も混ざる。

「だから、サボりじゃないですって。意識を切り替えてるだけです」
「切り替えって、そんなの、帰ってからやればいいじゃない。タバコ休憩が嫌いなのは、わたしも同意。依存を言い訳に仕事から逃げるのは、社会人としての常識に欠けるわ」
「無理ですよ。僕らはロボットじゃないんだから」

 カップにセットした珈琲ペーパーに豆を入れて、お湯を注ぐ。
 注ぎながら、言葉を紡ぐ。

「あなたもですよ、ロボットじゃないのは。草花先輩」
「は?」
「あなたは、仕事に依存してるんですよ」

喫煙者がタバコを吸って、僕が珈琲を飲むのと。
先輩が仕事をするのは、同じなんだ。

「依存……?」
「はい。このままじゃ、壊れちゃいますよ。たまには、休まないと」

 さっきよりも濃い香りが、ふたつのマグカップから湧き立つ。
 振り返ると、目の下にクマが刻まれた先輩の顔。

 他人にも自分にも厳しい彼女は、明らかに疲弊していた。

「グアテマラ産の珈琲は、仕事の合間に一息つくのにぴったりなんですよ。甘さと酸味のバランスが、絶妙で」

 マグカップをひとつ差し出しながら、手首を傾ける。

 一杯、どうぞ。一息、ついて。

「だから、いまは仕事中……」
「ずっと酸っぱい顔してばっかじゃ、部下も成果も、ついてこないですよ」

 お得意のスピードを殺された先輩は、そっと、カップに手を伸ばす。頭では拒絶していても、心が求めていたんだろう。束の間休息を、暖かい温もりを。

 先輩がカップに口を付けるのを、この目で確認する。

 ……ズ、ズズ。

 ゆっくりと、黒い液体が、紅い唇の向こうに、吸い込まれていく。

 そして、その声は、

「…………おいしい」

 草花先輩の顔が綻んだ。そして気付く。

 この人の笑顔は、こんなにも優しいのか。怒っていない声は、こんなにも柔らかいのか、と。

 珈琲は、その人の知らない部分を、挽き出してくれる。

「…………」「…………」

 しばらく、互いに無言で珈琲を啜る。

 いい余白です。

「「ご馳走様でした」」

 これで午後からは、いい仕事ができそうだ。

「じゃあ、いきますか。草花先輩」「ちょっと待って、水城くん」

 マグカップを洗って、給湯室を後にしようとしたところで、先輩がまた、僕の背中に声をぶつけてくる。その声はまた、尖りを増していた。

「なんですか? 言っておきますけど、この時間は共犯ですからね?」
「わかってるわよ。そうじゃなくって……」

 言葉が途切れたので、振り返る。
 そこには、ちょっと恥ずかしそうな先輩の顔と、珈琲の残り香。

「また、疲れたらここに来てもいい?」

 ……………………。
 この給湯室は、僕だけのオフィスだ。
 先輩とは、一緒にお酒も吞みに行きたくない。

「…………ちょっと、考えさせてくださいね」

 でも、珈琲くらいならいいかな。
 俺たちは、タバコ休憩も取れないし。

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