その争いは、混沌の様相を呈していた。
「絶っっ対、ブルンジだろ! 頭痛いときには、これがいちばん飲みやすいんだよ!」
茶髪の彼は、右手で頭を抑えながら大声を出し、左手では珈琲豆の入った袋を突き付ける。
ブルンジとは、珈琲豆の生産国のことである。
「頭痛は自己責任だろ。いいか? 勉強の合間には、グアテマラって相場は決まってるんだ」
眼鏡姿の彼は、刺すように鋭い視線で冷淡に返す。机の上には、こちらも珈琲豆が置かれている。
グアテマラとは、珈琲豆の生産国のことである。
「や~、インドネシア一択でしょ。深いコクがリラックスさせてくれて、目を瞑れば旅行気分にもなれるんだから」
だらしない雰囲気の彼は、座椅子の背もたれに体重を預けながら呟く。空欄だらけのプリントの上には、やはり珈琲豆。
もうおわかりだろうが、インドネシアとは、珈琲豆の生産国のことである。
「いやお前それ勉強する気ねえじゃん!」「夢見てるだろそれ⁉」
茶髪と眼鏡が突っ込むも、彼はふんわりした雰囲気を崩さない。
「まあまあ。で、どの珈琲で、一息入れる?」
また、振り出しに戻る。
「ブルンジ!」「グアテマラ」「インドネシア~」
どれも、同じ『珈琲』なはずなのに。
なぜ、このような争いは生まれたのか。
彼らはなにを主張したいのか。
どうすれば、円満な解決へと導けるのか。
人類と戦争は、切っても切り離せないものなのか。
そして、彼らは一体何者なのか。
少し、時を遡る。
すべては、この一室から生まれた。
「だーかーらぁ! ちょっと休憩しようって言っただけじゃん! あぁ、いつつ……」
パーカーにジーンズ。いかにも『大学生』然としたスタイルにアルコールをコーティングした茶髪の男が、人を駄目にする感じのソファに埋もれながら叫ぶ。
叫んだ拍子に脳が割れるような痛みが走り、悶える。間違っても割れてしまわないようにか、彼はこの部屋に来てからずっと、右手は頭に置いている。
期末試験の勉強のためにと友人宅に訪れたはずなのに、ペンを持つことはおろか、教科書を開く素振りすら見せない。
「休憩もなにも、お前ウチ来てからなにもしてないだろ」
そんな彼に向き合うこともせず、ただ淡々と広げたノートにペンを走らせるのは、皺のないシャツをキッチリと着こなした、眼鏡姿の男。
学部上位の成績優良学生であり、この部屋の主だ。
「しようとは思ってるよ。その為にはまずは休憩をだな」
「始める前に取る休憩ってなんだ」
「しょうがねえーだろ! 二日酔いで頭痛くて、勉強どころじゃないんだから! ……あぁ、いつつ……」
また、脳が割れたらしい。右手とともに、ソファに沈んでいく茶髪頭。
ちなみに人を駄目にする感じのソファも、眼鏡の彼の持ち物である。
「酒臭いのが移るからどけよ、ケンタ」
「いいじゃん、どうせミズキは使わないだろ? 俺が使ってやってんのよ」
「使う」
ミズキと呼ばれた部屋の主は、そのシャツと眼鏡が表している通り、真面目で勤勉な性格をしている。
しかしだからと言って、気を抜く瞬間がゼロなわけでは毛頭ない。
ミズキは真の勤勉さとは、メリハリにあると心得ている。よって、勉強するときは勉強に集中し、気を抜く時は、果てしないほどダラダラすると決めているのだ。
「勉強にひと段落ついたら、思いっきりそれに沈むつもりだ」
堅苦しい実家を抜け出しての初の一人暮らしだから、その堕落っぷりったら、異常である。
「あ、そうなの。でもいまは使ってないから俺の物~!」
ボフッ。より一層深く、右手とともに茶髪頭が埋もれていく。
ケンタと呼ばれた茶髪男は、その頭髪と服装が表しているとおり、量産型のザ・大学生だ。彼女ができたり別れたり、毎日合コンや飲み会三昧。二日酔いからの遅刻欠席は当たり前、友人であるミズキが信条とする勤勉さとは、およそ真逆の学生生活を送っている。
そんな彼が酒臭い身体で、自分がこれから沈むつもりのソファに埋もれている。
いくら勉強集中モードとはいえ、イラッとしないはずはなかった。
「ったく。試験の前々日に二日酔いするほど飲むなんて、正気の沙汰とは思えないな」
ミズキ、痛恨の皮肉。
「はぁ?」
煽りを受け、酒ヤケの喉で、ドスを利かせるケンタ。
それもそのはず、『勤勉さ』がミズキの信条なら、『飲み会ウェーイ!』こそがケンタの信条。そこに、濃薄も深浅もない。
「俺ら学生は毎日が『特別』なんだよ。それを楽しむのが、そんなにいけねえの?」
「学生の本分は勉学だ。楽しむのは、やることをやってからにしろ」
信条と信条が対立する。
「それができないなら……」
「できないなら、なんだよ?」
「もう課題写させてやらないぞ」
「すんまっせんした! ほんとすんまっせんした‼」
信条の対立、終了。
「バカですよねぇ、試験前に飲み会なんて! 気の迷いでした、もうやんないっすわあんなん‼ あぁ、いつつ……」
「そうだぞ。やることをやったヤツにしか、娯楽を嗜む資格はないんだ」
「そうっすよねえ! よし、その為にまず休憩を」
「お前俺の話聞いてた? 早くソファからどけよ。あと勉強しろ」
「もうさあ、いいんじゃない?」
茶髪と眼鏡の間に割って入ったのは、だらしないダル着に身を包んだ、ふんわりとした雰囲気の男。座椅子の背もたれに体重を預けて、呟くように言い放つ。
ミズキが一人暮らしをするこの部屋は、しかし一人で暮らすにはあまりにも広い。家主と友人と、その二人だけが居る状況ならば、友人がソファに埋もれることをそもそも許さずに、そこら辺に転がしておくことも、容易にできた。
しかしミズキにそれができなかった、心理的にしにくかったのは、そう、ケンタが二日酔いの身体を引き摺ってこの部屋に入ってきたときには、すでにもう一人分のスペースが占領されていたからに他ならない。
実は、この部屋にはケンタとミズキの他に、あとひとり、友達がいた。
「いいんじゃないって、なにがだ? ユウ」
ユウと呼ばれた男は、そのだらしない服と雰囲気が示す通り、ちょっと周囲から浮いている学生だ。よく言えば自分の世界観を持っている、悪く言えば空気が読めない。
床にばら撒いたプリントの空欄みたいに、なにをするでもなくそこにいる。彼はこれまで、友達の家に来ておいて勉強するでもなく、話に入ってくるでもなく、ただただ、ぼーっとしていた。
「勉強。しなくていいんじゃない」
「あほか! この試験ちゃんと点数取れなかったら、単位落とすんだぞ!」
ぼーっとしていたかと思いきや、場の前提条件を根こそぎひっくり返すような、急角度の発言を発射してきたりもするのである。
「べつに単位落としたからって、命を落とすわけでもあるまいじゃん」
この手の人物の共通点として、『いちいち主語がでかい』という特性が挙げられる。個人の問題と、社会や世界の問題とを一緒くたに考えて、ごちゃまぜにする。そうして、現実と理想の距離を曖昧にして、物事の結論を先延ばしにしてしまうのだ。
世間ではこのような思考法を、『モラトリアム』と呼ぶ。
「…………なるほど。たしかに」
ケンタも、ユウとは全く異なる人間とはいえ、限られた青春を後先考えずに謳歌しようと生きる、モラトリアムに従事した人間である。そのうえ、流されやすくて短絡的。
「じゃあ、やっぱ勉強いっか!」
「いいわけないだろ」
即座にミズキが否定する。大学を留年せずにストレートで卒業できるかどうかは、自己の勤勉さと、勤勉さをちゃんと持った人間が仲間内にいるかどうかで決まる、というのは、真実みたいだ。
オンとオフを完璧に区分する、メリハリストのミズキにとって、モラトリアムなどの曖昧な精神は忌避するべきものなのだ。
「単位落としたら留年。学費もバカにならないんだぞ」
「そっすよね! でっすよね! 俺もそう思ってました‼」
大概の人間にとって、モラトリアムは無意識下で精神的疲弊──焦燥や劣等感との対峙──を余儀なくされる。純粋な先延ばし思考というのは、ユウのような現実と妄想の境界線が曖昧な人種に与えられた特権なのだ。
現実逃避にも、それ相応の才能がいる。皮肉なことに。
「……でも、ちょっと疲れた感があるのはたしかだな。主にお前らバカ達のせいで」
言いながら、立ち上がるミズキ。そのまま、小さな台所へと向かう。
「お、休憩するのか?」
ちょっとだけ、身構えるケンタ。いま自らが埋もれている人を駄目にする感じのソファからの退去を命ぜられるかもしれないと考えたのだ。図太い彼ではあるが、変なところで気を遣ってしまうタチでもある。
「まだ休憩できるほどには進んじゃないからな。ちょっとだけ、息抜きだ」
ミズキがオフに見せる姿は、筆舌には尽くしがたい堕落の極み。その状態に自分を持っていけるほどにはまだ、翌日の試験内容の理解に自信はなかった。
「ちょっと、気分転換に一服だけ」
「あれ、ミズキ煙草吸ったっけ」
「吸わないよ。飲むんだ」
そうして、取り出したのは珈琲ミル。珈琲豆を削る機械。豆を入れたら後は自動でやってくれるタイプもあるが、ミズキが持っているのは、取っ手をクルクルと回して豆を削る、手動のタイプだ。
「お、珈琲か。そんなら俺も飲む!」
「まあ、いいけど。お前、珈琲なんて飲むの」
「ああ。この前合コンで知り合った女の子に、オススメされたのがあって。これが効くんだわ」
「効く?」
ケンタはソファから身体を起こし──まだ右手は頭に乗せている、もしかしたらほんとうに脳が割れてしまったのかもしれない──脇に放り投げていたバッグを傍に寄せる。
「ええっと……あ、あったあった」
おそらく奥底の方に眠っていたのだろう、未来の秘密道具を取り出すネコ型ロボットよろしく、しばらくゴソゴソと腕を動かしてから、なにかを引っ張り出した。
それは、パックに入った珈琲豆のようにも見える。
「これ、淹れてほしい!」
友人らしからぬ意外な持ち物に驚きながら、ミズキはその成分表をまじまじと眺める。珈琲ミルを一人暮らしの部屋に置くような彼だ。飲みの席で知り合った異性に最近勧められたからというケンタとは違い、そこには浅からぬ拘りがある。
「……ケンタ。これ、ブルンジじゃねえか」
「ブルンジ?」
「珈琲豆の種類だよ。これは、フルーティなのが特徴的な、ブルンジ珈琲だ」
「あー、たしかに、そんなこと言ってたっけかな」
「どうしてこれを?」
「や、その子も、なんか元カレ? とにかく男から教えてもらったらしいんだけどさー。二日酔いのときには、これ飲んだら頭がすっきりするんだって!」
「まあ、軽いコクは口直しにもちょうどいいからな……」
「あ、やっぱそうなん? だからミズキ、頼むわ! これで勉強も集中できるはずだからさ」
右手で頭を抑えながら、左手で珈琲豆を渡そうとするケンタ。しかしミズキはそれを受け取らず、冷淡に一言。
「駄目だ」
「なんで! ……俺が珈琲素人だからか?」
「ちがう。珈琲は、だれでも気軽に愉しめばいいと思うさ」
言いながら、ミズキは棚から珈琲豆を取り出す。
「でも、俺が飲んでいるのは、グアテマラ産の珈琲なんだよ」
その豆を、机の上に置く。それは、これこそが勉学の友であると示すための配置だった。
「勉強とか仕事の合間には、甘さと酸味のバランスが絶妙なグアテマラを摂取するって決めてるんだ。これがメリハリを生むんだよ」
成績優良生の勉学の秘訣は、シチュエーションに合った最適な行動を選択すること。息抜きの一杯に飲む珈琲すら、妥協しない。
ミズキは勉強中には、必ずグアテマラを飲むと決めている。
「グアテマラだったら、ケンタにも淹れてやる」
「や、いいよ。じゃあお前のグアテマラ? 淹れた後でいいから、ブルンジ淹れてくれ」
「できない」
「なんでだよ」
「わざわざ何回も珈琲豆削んのめんどくさいだろ!」
「そんな理由⁉」
「意外と疲れるんだぞこれ!」
彼の名誉の為に説明しておくが、ミズキはなにも冷酷無慈悲な人間ではない。むしろ、みんなの勉強会に自室を提供していることからもわかるとおり、意外と面倒見が良く情に熱い一面はある。
ただ。
明日の試験への不安と、まったく勉強しないばかりか、こちらの集中力を削ぐような言動、行動ばかりを取る友人たちへのイライラが、彼をちょっとばかり意固地にさせていた。
「じゃあ、今日は気分を変えてブルンジにしようぜ。頭も冴えて、いつもよりめっちゃ集中できるかもよ」
「いや、勉強中はグアテマラしか飲めない!」
「頑固だな!」
ケンタが図々しい発言をすればするほど、ミズキは意固地になる。いよいよ、二日酔いでもないのに、頭もズキズキしてきた感じがする。
どうにかして集中力を取り戻したい。はやく、はやくグアテマラ珈琲が飲みたい……。
ここにきて、再び沈黙を貫いていた不思議チャンが、動く。
「ねえ、僕もインドネシアの豆持ってきたんだけど~」
「グアテマラしか淹れん!」
「ユウ、ここで新しい選択肢を増やすなって!」
ユウのぶっ込みによって、ケンタ、焦る。図々しいくせに意外と周りを気にする彼は、家主である友人のイライラがどうやらピークに達しているであろうことを悟り、元々抱えている頭痛が更に激しさを増す。
最初はなんとなくだったのが、本気でブルンジ珈琲を欲するようになる。
「インドネシアはいいよ? 一面ピンクの砂浜とか、コモドドラゴンとか~」
一見、いつも通りの通常運行のように見えるユウであるが、実のところ、内心気が気ではなかった。モラトリアムの体現者、現実と妄想の狭間に身を置く彼にとって、脳内の世界はむしろリアル。そちらこそが本拠地。
しかし、別の意味でそれぞれ現実思考の強い友人たちの言葉に当てられ、さらには床に散らばった試験範囲のプリントの山が、否が応でも彼の『現実』を呼び起こす。常にぼーっとしている彼が現実を直視することは、いわば肺呼吸しかできないヒトが、いきなり海に放り込まれるようなもの。
ユウは、珍しくテンパっていた。いま考えていることはただひとつ。インドネシア珈琲に溺れたい。僕をリラックスの世界に連れ出して……。
「あ~~もうあったまいてえ! ブルンジがいちばんだろ!」
「グアテマラしか飲まないと決まっている!」
「インドネシア一択だよ~~」
こうして、試験前夜、勉強の為に集まった大学生の男たちが、それぞれが飲みたい珈琲を主張し合って、このような争いが生まれたのである──が。
そこはさすが、優等生。ズキズキと痛む頭で、ミズキは気付く。
──頭痛で集中力が維持できないなら、ブルンジもありなのでは?
そうして、友人たちの言動と、推している珈琲の特徴を、ようく観察し、整理してみる。
ケンタの主張。
「頭痛い! 二日酔い辛い! ブルンジ飲んで“落ち着きたい”!」
落ち着く──リラックス作用が強いのは、ユウの持ってきたインドネシア珈琲だ。
対して、ユウ。
「インドネシアではね~ウミガメがね~ざっぶーんってね~」
いつもより歯切れが悪い。必死に、脳を妄想に切り替えようとしている。思考をスイッチするのに適しているのは、ミズキが持っているグアテマラ珈琲だ。
そうしてミズキの脳はいま、ケンタがリュックの底に眠らせていたブルンジ珈琲を求めている。
「──と、なると」
ミズキは、ケンタとユウから珈琲豆をひったくった。
「ん? ブルンジにするのか?」
「インドネシア淹れてくれるの~?」
「ああ。淹れてやる。もちろん、グアテマラもな」
「「ええ?」」
メリハリだけを信条としていたこれまでのミズキなら、決して出てこなかった解決法。
ケンタからは楽しむ度胸を。ユウからは曖昧さのリアルを教えてもらった。
そんなミズキだから出せた、もうひとつの答え。
「全部、最適な割合で混ぜればいいんだ!」
珈琲は試験じゃない──答えがひとつとは限らない。
いろんな答えを混ぜ合わせることで、それまで見えていたどれとも違う、至高の解答にすら行き着く。
それこそ、ごちゃ混ぜなんかじゃない、メリとハリをつけた配合ならば。
「──できた。さあ、三人で飲もう」
カップに注がれたのは、インドネシア、ブルンジ、グアテマラ、三種類の珈琲豆が混ざり合った、究極の珈琲。
「……あ、これ、頭も心も落ち着くな……」
ブルンジのフルーティな香りの後には。
「海が見える……しかも、色んな国をまたいだ、おっきな海が……」
インドネシアマンデリンの、甘さとコクが残り。
「……頭痛も引いた。気分が良い」
その二つの架け橋として、グアテマラ。
友と共に居たからこそ出会えた、渾身の一作。
「これ、特別な珈琲って感じだね~。いいのかなあ、こんな、なんでもない日に飲んじゃって」
「当たり前だろ。学生にとっちゃ、日々のすべてが『特別』なんだから」
「そっか~。それもそうだね~」
「だろ。あはは」
「ふたりとも、明日が試験だって忘れてないよな? 試験前日ほど特別な日はないだろ」
「「あ」」
「さ、美味しい珈琲で一息ついたとこだし。これで勉強に集中できるな」
二日酔いが収まってきたケンタは、茶髪頭をソファに沈めるようなことはせず、両手でしっかり教科書を持つ。
完全にリラックスできたユウは、相変わらずぼーっとしているものの、ちまちまと、プリントの空欄を埋めていく。
切り替えて、再び脳が冴えてきたミズキは、また机に座ってペンを走らせる。
三人の期末試験が、単位が、学生生活が、青春が──これからどうなったのかは、まだ、だれにもわからない。
\ 今回の小説に登場したコーヒー /
